人口
タジクの国民形成過程は、4~5世紀に始まり、9~10世紀のサーマーン朝建国をもって終わりました。タジク人の民族的起源は、古代中央アジアのバクトリア人、サルマティア人、トハラ人、ソグド人、サク人、マッサゲタイ人まで遡ります。イラン語派の言語やインド・アーリア語派のダルド語群の言語を話す人々、そしてヌーリスターンの人々と同様、タジク人も祖先はアーリア人であると考えています。タジク人の直系の祖先は東イラン語派の言語を話す人々ですが、西イラン語派の言語であるペルシャ語は話しませんでした。イランでは「ファルシ」、アフガニスタンではダリ語として知られている新しいペルシャ語が、中央アジアで8世紀以降「タジク語」として定義されています。アラブ勢力の侵入以降にペルシャ人(西イラン系民族)が中央アジア(中国西部含む)に移住するようになり、東イラン系民族はペルシャ語を採用したのです。この影響で、当時の東イラン系民族(タジク人)はペルシャ語を話すようになりました。しかし、初期東イラン語派の言語や方言がその背景にあったことは疑う余地がありません。
人類学上、タジク人はコーカソイドに分類されています。毛髪と瞳は暗い色で、肌は薄褐色から明るい色調なのが典型的な特徴です。ソグド州の渓谷に住む人々は、毛髪が少なく、顔幅が広く、目が細いというモンゴロイドの特徴を備えています。パミール高原の人々に共通しているのは、毛髪も瞳も色が明るいということです。
国家を構成する国民の多様性は、歴史上の幸運によるものです。タジキスタンは、大航海時代まで世界的な交易路だったシルクロード上に位置し、侵略や征服を何度も経験しました。領土が広大なため、特に南部で人口の民族構成が他に類を見ないほど多様です。
パミール系タジク人は、言語、生活様式、その他の特徴を理由に、タジキスタンの一般大衆から差別されています。具体的にはシュグナニ・ルシャニ人、クフィ人、ヤズグリャム人、ヴァファニ人、イシュコシム人、バルタング人ですが、みなゴルノ・バダフシャン自治州(略称GBAO)の住民です。ソグド人直系の末裔であるヤグノブ人も特別な存在で、山岳地帯のヤグノブ渓谷に住んでいます。話す言語は古代ソグド語の方言のひとつであり、7~8世紀のアラブ勢力侵入まで現代タジク人の祖先も話していた言語です。今日ヤグノブ人は、タジク語とヤグノブ語の両方を話します。

他の山岳地域と同様、タジキスタンでは標高の高い地域で人口がまばらです。大きな河川の周辺にある低地では人口が増え、集中的に経済開発が進められています。斜面や高地では人口が少ないか、無人です。人口の大半は、標高1,000メートル以下の都市や村に住んでいます。また標高1,000~2,000メートルの範囲にも住民が多数いますが、標高2,000メートル以上の場所に住む人々はわずかです。
タジキスタン南部には、アラブ系住民が少数います。14世紀半ばから、エルサリ部族のトルクメン人がヴァフシュ地区の下方に定住しています。パミール高原の北東から東にかけては、キルギス人が住んでいます。地元で「ジュギ」または「ルリ」と呼ばれる中央アジア系ジプシーは、複数の集落で暮らしています。その他、ロシア人、タタール人、グルジア人、アルメニア人、ドイツ人、中央アジア系ユダヤ人がタジキスタンの各都市に住んでいます。
タジキスタン南部には、アラブ系住民が少数います。14世紀半ばから、エルサリ部族のトルクメン人がヴァフシュ地区の下方に定住しています。パミール高原の北東から東にかけては、キルギス人が住んでいます。地元で「ジュギ」または「ルリ」と呼ばれる中央アジア系ジプシーは、複数の集落で暮らしています。その他、ロシア人、タタール人、グルジア人、アルメニア人、ドイツ人、中央アジア系ユダヤ人がタジキスタンの各都市に住んでいます。