紀元前1000年の半ばまで、現代タジキスタン領内のアムダリヤ川とシルダリヤ川の流域には、東イラン系民族が定住していました。最古の古代国家バクトリアやソグディアナは、アムダリヤ川の上流から中流付近の川岸に広がっていました。紀元前4~6世紀にはペルシャ人が建国したアケメネス朝の属国となりました。フェルガナ盆地やザラフシャン渓谷から、西はブハラ地方まで、ソグディアナの農耕地は国際貿易で重要な役割を果たしました。中国と中央アジアを結ぶ交易路に位置していたからです。アケメネス朝は、紀元前330年にギリシャ・マケドニア軍に敗れて、滅びました。アレクサンドロス大王の軍隊に対して勇敢に戦いましたが、バクトリア人やソグド人、中央アジアの諸民族は征服されました。

約200年後、バクトリアとソグディアの人々はマッサゲタイの遊牧民と共に、ギリシャ・マケドニアの出先政府を転覆します。バクトリアに建国されたトハリスタンは、後にソグディアナと共にクシャーン帝国の一部となりました。シルクロードはトハリスタンを通過しており、絹はタリム川近辺の市場へ持ち込まれて、西方のギリシャ・ローマ帝国の諸国に運ばれました。逆にローマやビザンチンから中国へはガラス製品(クリスタルや薄手の色彩豊かなガラス器)が輸入され、中央アジアからは装身具や宝石、インドからは紙やウール生地、スパイスが運ばれました。

5世紀にトハリスタンやソグディアナ、中央アジアの諸地方は遊牧国家エフタルの支配下に入りましたが、6世紀後半にはテュルク系遊牧民に占領されました。6~7世紀になるとトハリスタンとソグディアナでは奴隷が増えると同時に、封建制度が導入されました。その結果、経済と文化が速やかに発展しました。鉱山では鉄、銅、青金石(ラズライト)、ルビーが採掘され、灌漑水路が建設され、乾燥地に灌漑用水が引かれました。封建都市は重要な地位を占めるようになり、工芸や貿易が発展しました。主要な言語はバクトリア語とソグド語で、いずれも東イラン語派の言語です。封建制度の発達に伴って、無数の独立公国が誕生しました。しかしいずれも弱小国家で、7~8世紀に中央アジアに侵入したアラブ勢力には抵抗できませんでした。
ソグディアナとトハリスタンの人々は民族解放のために戦い続けました。反乱が続発したため、総督府の助勢をもってもアラブ人による中央アジア支配は困難になりました。そこで頻繁に封建国家に支援を頼るようになりました。こうしてアラブ人支配から中央アジアを解放する準備が整えられていったのです。9世紀末にバグダッドのカリフ(モハメッドの後継者)から独立して、サーマーン朝が樹立しました。最盛期には中央アジアの砂漠から湾岸地域、インド国境からバグダッドまで支配しました。サーマーン朝時代、タジキスタンの民族と文化は広く普及し、タジク語も各地で話されるようになりました。100年以上も平和が続いたおかげで、都市や工芸が発展し、農業や貿易、鉱業も成長しました。これこそルネッサンス時代で、世界でも偉大な人間中心主義者が何人も生まれました。例えば、ペルシャ・タジク文学の父ルーダキー、不朽の叙事詩『シャー・ナーメ』の著者フェルドウスィー、世界的に有名な科学者で博識のアブー・アリー・イブン・スィーナー(アウィケンナ)です。しかし内紛や遊牧民の反乱が頻発してサーマーン朝は弱体化し、999年にテュルク系民族の強襲をうけて崩壊しました。カラハン朝(北部)とガズナ朝(南部)は、サーマーン朝を滅亡させて権力を築きました。

13世紀初頭(1219年~1221年)、中央アジアはチンギス・ハーンが指揮するモンゴル軍の侵略を受けました。国土は完全に荒廃し、都市は破壊され、農園やブドウ園は馬の牧草地になり果てました。チンギス・ハーンは生前に侵略地を息子たちに分割相続していましたが、中央アジアの文化拠点は次男チャガタイのウルス(独立公国)に受け継がれました。これに抵抗して、1238年にブハラで職人マフムード・タラビが最大の反乱を率いると、サマルカンドで吊るされた男「サルバダール」が反乱を起こしてブハラでモンゴル軍を倒し、新しい支配者ティムールが権力を掌握しました。
ティムールが権力の座に就いたのは1370年で、封建派閥型の政治を暫定的に終結させました。東方諸国征服のための度重なる遠征と、とくにペルシャ語を話す民族を冷酷な大量虐殺の対象にしなかったことから、ティムールはサマルカンドを首都とする巨大帝国を築き上げることができました。優秀な科学者であり天文学者でもある、第四代君主ウルグ・ベクをはじめとする子孫の統治下では、中央アジアのオアシス都市が再興され、天文学、数学、歴史学、文学、芸術が花開きました。しかし王朝の内紛や遊牧民の反乱が帝国を蝕んでいきました。ウズベク系遊牧民族の指導者シャイバーニー・ハンは、ウラルに住んでいましたが、ティムール王朝内の対立を利用し、1500~1507年にかけて中央アジアを侵略しました。シャイバーニー朝の統治下で、ウズベク・ハン国はタシュケントやサマルカンド、ブハラやバルフなどの独立公国で構成されていました。
1557年~1598年まで中央アジアは、ブハラ王国を築いたシャイバーニー朝のアブドゥッラーフ・ハンの統治下にありました。1598年にアブドゥッラーフ・ハンが殺害されると、モンゴル王朝出身の統治者であるアストラハン王朝に権力が移りました。一方、頻発する戦争と過度の税金で地域経済は悪化しました。その後何世紀も衰退した公国は、政治から切り離されたままでした。現代タジキスタンで有名なクリャブ、ギッサール、カラテギン、ダルヴァズ、ワハーン、シュグナンの公国は、このとき既に存在していたのです。中央アジアのタジク人は大半がブハラ公国とコーカンド公国に住み、独立公国に住んでいたのは少数でした。
14世紀後半、中央アジア地域はロシアとトルキスタンに征服され、領内に一般政府が樹立されました。タジキスタン北部とパミール高原は新領土の一部であり、中央部と南部(東ブハラ)はロシア皇帝の家臣、ブハラのアミールの所有地として残りました。14世紀末にロシア帝国政府は農業改革を実施しましたが、住民は灌漑された農地を受領する代わりに、土地の大部分を押収されました。税金が上がり、責務が増え、不法行為が横行すると、頻繁に社会秩序が乱れるようになりました。1888年には撒餌業者ヴォセが支配していたバリュヴァンベクストヴォで、最大の反乱がおきました。1900年にケリフの農民が反乱を起こすと、1901年にはデナウで、1902年にはクルガン・テュベで反乱が続発したのです。農民の反乱はすべて冷酷に鎮圧されました。
第一次世界大戦は、とくに対立を先鋭化して社会を分断しました。1906年の夏に最大の革命が起こりましたが、アミールの軍隊に制圧されました。1917年3月31日ロシアの行政府は中央アジアに影響力を行使し、トルキスタン政府を廃止に追い込みました。
1920年10月6日、第一回ブハラ国民議会が宣言され、ブハラ人民ソビエト共和国が建国されました。農業従事者は納税義務を免除され、戦争の被害に遭った世帯は貸付金や種子、農具を支給されました。1924年になると中央アジアに新しい国家が樹立されました。ウズベク・ソビエト社会主義共和国です。この一部がタジク自治ソビエト社会主義共和国だったのですが、1929年に独立してタジク・ソビエト社会主義共和国に昇格しました。
旧ソ連において、タジク共和国は短期間で農業・工業国に転換しました。木綿の極細繊維の主要供給源になったのです。タジク共和国では労働者階級や知識人階級が形成され、最初の高等教育機関も設立されました。第二次世界大戦でファシズムとの戦いにタジキスタンが貢献したという重要な事実は特筆に値します。19万人以上が前線で戦い、6万人以上がシベリアやロシア各地の軍事工場で働きました。タジク共和国では54人がソ連の英雄として最高位の軍事勲章を与えられました。戦後、タジキスタン経済は新局面を迎えました。綿花の生産は増え続け、旧ソ連において綿花生産第一位、総利回り第三位になったのです。
さらに大型水力発電所がいくつか建設され、順調に産業が発展しました。そのひとつがノラク水力発電所で、中央アジアで最大規模です。
1991年9月に旧ソ連が崩壊すると、世界地図に新興国家が現れました。タジキスタン共和国です。1992年、地域や部族を対立軸にした政治紛争が激化して、内戦に突入しました。国連の保護下で1994年4月に始まったタジク人同士の交渉は長期化しましたが、1997年6月27日にタジキスタン大統領エマモリ・ラフモンとタジキスタン反対派連合の指導者アブドゥラフ・ヌリが、モスクワで和平協定に署名しました。
今日のタジキスタンは、世界で117番目に承認された独立国家です。国連や他の国際機関の加盟国でもあります。